タイトルはヨガ教室の先生Dちゃんがこんな様なことを仰っており

私も次女も同感。。。のため拝借致しました^_^

Dちゃん先生ありがとうございます。

以下これから書くことは、誰かを批判するための文章ではありません。

と言うことで本文へ。
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木曜日から安曇野地域で久々に、

整体を学ぶ様な会へ、

次女を伴っていきました。

その中のお話で、先生のような立場にいらっしゃる方が、

「大切にされ過ぎて、命が自らの力で晴れやかになっていかないのが今の子供。
怪我をしたら、チヤホヤ、泣いたらすぐ大人はチヤホヤする。
だから覇気がなくなってグジグジする子になる。
こう言うことをしたら、こう言うネガティヴな事を言えば人がチヤホヤしてくれると
身をもって学んで、学んだ通りに行動してそうしてしまう」

物凄ーく物凄ーく物凄ーく端折って簡単に書くとこんな内容のことをお話ししていました。

が、私は悲しくて仕方ありませんでした。

次女は、感情が無いのかと思うほど、
感情表現をしない子供でした。

小学校三年生になってようやく自分について表現する事を覚えました。

産まれても目も合わせない赤ちゃん。

喃語も極端に少ない。

喃語があっても声の出し方が普通とは違う。

保育園にあがっても保育園の三年間はほとんど声も出さず、

お友達と会話もなく、そのまま

感情表現もせず小学校に上がりました。

小学校に上がって現在もお世話になって居る支援級の先生と出会いました。

三年生まで一切余計な事は話さずにいました。

三年生になってから、先生の提案で

カードを使い自分の感情を表現する練習をしました。

そこで何が起きていたかと言えば、次女の感情を知ると言うより

先生はこんな時こう言う表現をします。これは悲しい気持ちです。

悲しいと感じるのは大概どんな時とどんな時で、こんな風に気持ちを伝えます。

と言う様な学びを通し、先生はこう言う時にはこう言うものだと思って居る、

という先生の反応パターンを自らの反応パターンにインプットしてしまいました。

もともとが素直で真っさらな真っ白な画用紙みたいな心の人の中に、

素直さが仇になって、先生の反応パターンを自らの反応パターンとしてしまいました。

これはマズイ。

これは非常にマズイ。

次女から次女の世界観が損なわれて行く

次女をみて居るだけでは外から全くわからないけど

色とりどりの豊かな世界が次女の心にはきちんと息づいて広がって居る。

反応を示さない、感情表現が無いからといって、

次女の内なる静かな世界には、喜びはきちんと根を張っている。

お願いします、それをどうか感じてやってください。

次女の絵を見れば、次女の心の中の豊かな世界があるじゃ無いですか?

次女なりの表現ではダメでしょうか?

例えばお友達に叩かれたとします。

次女はその時、叩かれてから数秒後に

ニコニコしながら自分のl頭を静かに撫でて居る様な子です。

これではダメでしょうか?

感情表現の仕方に正しさってあるのでしょうか?

話が苦手な人に無理矢理話をさせようとするから、

本人の気持ちとはかけ離れた言葉がついて出てしまいます。

お願いします。

皆がそうして居るからという理由で

次女ならではの感じる心を、先生が理解できないかろという利用で

掻き回さないでください。

反応の仕方まで皆と一緒じゃ無いといけませんか?

叩かれたら怒るという概念を、次女は持っていませんでした。

痛いという体感はあります。

痛い思いをさせられたから怒りを表現する。

と言うことが次女には分かりませんでした。

なので平和なこなんです。

我慢して居る。という様子もなくて。

お友達とトラブルがあった子は、何も話をしない次女のそばで

ジッと時を共に過ごして居ることが多かったですが、

何もジャッジしない、されないと言う心地よさを

次女を通して、

傷ついたお友達もその心地よさを感じていたのでは無いですか?

お願いします。

次女をそっとしておいてください。

先生にはそうお伝えしたかった。

なかなかご理解は頂けるものではありませんが。

あたり前ですが。

しかしなんだかんだといっても先生のお陰様で、

それからは、次女は見る見る言葉を覚え学校でも話始めました。

ただ、次女の示す反応パターンは

仕込まれたものであると言う違和感がどうしても拭えず、

行いと言葉がちぐはぐでしたので、

それ以降は学校をズル休みしたい時や、

先生にどうしてもつたえたいこと、連絡事項などは、

親を介さず、次女が直接先生に電話をかけたり

自分の言葉で自分の気持ちを伝える様に、

私達親は次女と先生の間には介入しない様にしていました。

「おはようございます、サトワです。
先生、学校が疲れたから今日はお休みしたいです」

と言う感じです。

そして今があります。。

今、まだ変化し続けています。

変化し続ける現在のエネルギーだけを読んで、

チヤホヤされて居るというよりも

むしろ今は幸い放っておかれています。

お友達は誰もいないと知って居る、

自力で登校を拒否する強さももっている。

親は何でも自力でやらせようとして、私をあまり助けないとおもっている。

次女はそう思っているのですが

一見すると猫背の次女には外見からは覇気が感じられず

痩せている体に、今回の会場になっていた

体育館の硬い床が更に足とお尻を痛くさせて辛いのを堪えるために、

母の肩にもたれながら痛さを紛らわせるために

母のl手を握ってユラユラさせている姿が、

甘ったれている様にみえたかもしれません。。。

この学びの会では更に先に進める様に、

まだまだ氣づきが足りないと叱咤して頂き

いつお会いしても先生のような立場の方には

寝ていた目を覚まして頂いています。

それで、緊張感でお尻の痛みを耐えた娘には、

自身の生い立ちを取り混ぜて話す今は健康であるその方の言葉が

ただ風の様にl通りすぎていくだけだったようでした。

次女は話し言葉の音を心地よい振動として捉えるので、

内容よりも心に響く言葉の心地よさが大切です。

母の私と同じです。

言葉を音と捉え、

心地よいかそうでないかで、言葉を感じていますし、

その人の心を感じています。

なので長くお話してくださった先生の言葉そのものは頭に残らず、

次女が今回持ち帰ったものは

先生の話の中身では無く、

「堪らない疲労感」

でした。。。。

私自身はどうだったかと言うと、

私自身の頭に刷り込まれた、

自己卑下をアピールしながら愛情を求めるという

ドンヨリしたものをもう一度精査し清算できたら

さらに命が晴れやかになりますよ。

と伝えられた気持ちもしています。

しかし、私も

言葉で気持ちを伝えることが苦手です。

言葉を使わなくても分かりあえる世界が

あれば良いなあと思っています。

数少ないけれど必要な言葉を、ゆっくりとお伝えできる場を、

私は作りたい。

そういう安心感を人様と分かち合えたら嬉しい。

カリスマ性全開の方のお話にはその経験の豊かさから深く共感する事も多いのですが

ただ聞いているだけじゃなくて、私なりに

普通の主婦にしか出来ないことも案外たくさあると思っている事があって

それを粛々と行う日々に戻ります。

覇気がない子に見える子の内なる心は、

生き生きと色鮮やかに命を持っているのです。

ただ、空気を感じすぎて、場の緊張感まで吸ってしまう様で

萎縮してしまうのですが、

そんな空気もへっちゃらと言う子供像を求められると

こう言う人の生き心地よさが、行き場を失ってしまうんです。

まだ未知数の子供は母が変わればきっと変わるのですが、

この人の今現在を尊重すること以外

親には何もしてあげられることはありません。