写真は先週。

今週末は吹雪いたりどんより厚い雲から雪が舞ってきたり。

 

私は少しおかしなところがあるのかな。

 

子供たちに

「障がい」

という名前がついても、もうなんとも思わなくなっています。

ただ、

そういうカテゴリーに入っている事は事実です。

 

困ったとか、障がい者にしてしまったとか、

そういったことは、もう思わなくなりました。

 

最近は

発達障がい

では無く

自閉症スペクトラム障がい

という名前に変更になっています。

だからと言って何か変わったかと言えば、

支援していただけることや

何かと書類や面談が多くなる。

という事くらいで、子への思いは変わらないものです。

 

長女が発達障がいかもと言われたのは2歳の頃。

3歳で確定した時は散々泣いたのですが、

気づけば吹っ切れていました。

五番目の子も。。。

という懸念があった時、つい数ヶ月前。

落ち込みましたが、

やはり何も変わっていません。

子が可愛いという親の気持ちにも、

子供本人も。

何も変わっていません。

 

 

名札が一つ増えるのですが

障がい

という言葉は、こう言う変わった人たちが現在の仕組みで生きていく上では

便宜上仕方ないと思っています。

学校に行く上で、社会で生きる上で

便宜上そう名乗ることは

現在は仕方ないと思っています。

日本では和を重んじ皆一緒というところが良しとされる傾向にある仕組みの中で

それが出来ない。

したくない。

という本人の意思を尊重する為に

和を重んじる場で理解していただくための

名札に過ぎないと思っています。

それをワガママとおっしゃるご意見も頂戴してきました。

頑張ってその仕組みに合わせようと努力している方から見たら

ワガママ言って楽しててズルイ。

と仰りたくなる気持ちも分かります。

多くの方は恐らく、

頑張っていると

いう姿が好きなのですから。

 

ただ、家庭で話し合い、

我が家はこちらのやり方を選びました。

 

障がい

という気の毒な名前を背負って、

この人は一生障がい者として生きて行かなければならない。

と思っていません。

背負って行く。

というお荷物のようなものとは捉えていないからです。

背負うのじゃなくて

長きに渡り隣を歩いて行く、見えない親友。

一緒に歩んで行く大切な片割れ。

そう捉えています。

 

また、障がいを一種の武器、とも捉えていません。

得意を伸ばすことや、見つけてあげることもしていません。

今、好きで、今、得意と感じていることを

たくさんやればいい。

としか考えていません。

全てがそこに集約されている訳だから、

今子供に大好きな事やものが無くても、

躍起になって得意を、大好きな事を探す事はしていません。

日々の遊びの中に好きになって行くコトやモノの延長があって、

それは親が見つけて手渡すモノじゃない、と思っています。

きっかけは日々の生活の中にあり、

子どものその部分を如何に邪魔しないか。

というところが大切なんだと思っています。

大人が躍起にならない事が今は家族として一番

心地イイんです^_^

 

これは、子供がまだ年齢も行っていないので

できる事ですね。

 

捉え方が変わって楽になりました。

もう困った困ったと騒いでいた私はどこか遠くに行きました。

 

起きることの全てが予定通り。

 

きっとそうなんだと

最近つくづく思います。

案外、安心して委ねている方が

綺麗に流れて行けるものだと思います。

 

苦しみの元は

自分が何かをコントロールしようと思った時に

起源を持っていて、

コントロールしようとしなければ、きっと

なるようになり、丸く収まるのだと思います。