今日は姑の一周忌。

素晴らしい秋晴れでした。

カラッとした性格の明るい人。

なんでも正直に口にしてしまう人。

正直を通り越し

ズケズケね。

見知らぬ人にも

まるで知り合いかの様に話しかけられる人。

フルオープン。

そんな言葉がよく似合う。

ばあちゃんらしい

一周忌の空でした。

 

〜〜〜〜

私は占いはとても疎いのですが、

なんでもマヤ暦の占いでは

「白い世界の橋渡し」

というものが私の中に含まれているらしいです。

白い世界の橋渡し

とは、

あちらとこちらの世界。の橋渡し。

なのだそうです。

これがツォルキン?

よく分からないなぁ…

その為でしょうか?

私は若かりし頃

ターミナルケアの病棟で介護の仕事をしていました。

毎月毎月、何人ものかたを

あちらの世界にお見送りさせて頂きました。

戦争ももちろんですが

様々な体験をされそして、

人生を終えていかれる。

私のようなものに、死に様を見せてくださって

誠にありがとうございました。

皆様のお陰で今の私がありますこと、

改めて

深く感謝致します。

 

死の

その後に訪れる静けさ。

喘ぐような呼吸音は止まり

傍に佇む涙を流してはいけない決まりの私たち。

亡くなられた姿。

亡骸はやはり脱け殻。

先ほどまで

精一杯息をしようと喘いでいらっしゃったその息が

静かに覚悟を決めたように止まる瞬間。

その瞬間から

僅か数分で

体は蝋人形のように眼に映る。

お世話させて頂いた時の

表情、温もり、生きている匂い。

それらが無くなると

まるで精巧な蝋人形のようです。

そこに向かうまでに

どのような思いを残されたとしても

その人生を悔いている方でも

やはり

人は身体を離れる時を自分で選ぶのでは無いか?

と思います。

もちろん姑のように

体が癌と共に生きられるだけの生命力を失っている

時は、

もしかしたら御本人の意志と反することも

あるかも知れません。

(姑は

早く死にたいと、話していました。

痛くて痛さから解放されたいのだと。

生きることを放棄する瞬間でも有りました。)

 

生きたい。

そう願いながら

身体が乗り物としての機能を果たさなくなり、

離れざるを得なかったという事も

あるのかも知れませんが

定かではありません。。。

それでも、朦朧とする意識の中で人は

静かに腹を括るのだろうと思います。

死というもの、

どのように生きても

私たちに等しく訪れる瞬間。

ならば

怖がったり恥ずかしがったり傷ついたり

悲しがったりしたとしても

それでも

私たちは

私達が望むように生きる以外

何があるのだろうか?

と、思うのです。

いつの間にやら

自由に振る舞いすぎると

空気読めない。などという謎の言葉が

まるで自由な振る舞いを攻めるかの様な口振りで

世に出てまいりました。

しかし

それのどこに責めを負う必要があるのか。

何も罪なことでは無いものを。

いつから

義務や責任に囚われて

魂のままに動きたいという衝動を抑え込み

その動きを止めてしまうのか。。。

 

自由たれ。

全ての精神

全ての命。

何ものにも囚われず

その心は空を駆け巡る。

まるで羽のある生き物のように。。。

 

 

姑の一周忌を迎えた今日、

 

今日はまた私、さらに理屈っぽい。

とても体調が悪いので。