昨日はとても氣持ち良い秋の空で

夫も氣分が良かったのか

珍しく山のお散歩にお付き合いしてくれました。

 

今日は

いよいよ私の体調不良がピークとなり

(そう見えないのだけど、体調不良です)

昨夜、

夜のご町内のイベントで

大学生の奏でるケルト音楽聴きながら

小ぢんまりと日本酒を頂いたのですが、

体調不良です。念のためね。

『ケルト音楽聴きながらお酒。』

と言うシチュエーションに負けて

飲んでおりました。

楽しみだったのです。。。

この夜がとっても。

体調悪くてもどうしても行きたかった。

楽しかったなぁ…行かれて良かった。

お陰でまだ体調は復活してませんが、

行かれて何よりで、幸せです。

 

今日の午後は家にいて

風邪気味の次女と2人で

『鳩ぽっぽ』

を何度も歌ってのんびり過ごしました。

 

他の家族御一行様は姑のお参りにいき

次女と2人でお留守番です。

私なりの一周忌の法要の仕方で

私の氣持ちの中では

姑の法要は済んでいるので

私は家で休ませてもらいます。

 

最近、

死というものを意識するような文章に

多く出会います。

 

死ぬ瞬間は怖い。

知らない時は怖いものです。

未知への恐怖はありますから。

私の体験から

怖いかどうか、恐らくその人の意識のある場所による

と、今は思います。

 

死を意識する出来事が

恐怖を伴う出来事であったとしたら、

怖いのかも知れません。

私は三女の出産で

死を一旦私のものとしました。

遠のく意識の中で

聞こえるのは

徐々に

ゆっくりとした鼓動になって行く

私の心臓の音。

あ、私はこれで

死ぬんだなぁ。

と、驚くほど冷静に

その弱まる鼓動を感じていました。

安らかでこの上ない静けさでした。

呼吸の記憶はあまりありません。

どんな呼吸だったのか。

苦しいな、少し。

と、思ったことまでは覚えています。

 

感じるのは心臓を打つ音が

ゆっくりゆっくりと速度を落として行くこと。

そして体温を維持できていないことも

遠くで自覚出来ていたこと。

その時

恐怖はほとんど顔を出さずにいてくれました。

多分既に

自分の身体の少し離れた所から

私は私の体を感じ始めていたのだと思います。

どこか遠くから

とても静かに私を見つめていましたが、

呼吸が苦しい。。。

と、身体に意識を移すと

私は身体にもどり、呼吸が苦しい

を、体験するのです。

 

苦しいのは恐怖と直結します。

なので、

私は呼吸が苦しいと認識すると

恐怖から遠ざかる為に

体から少し離れ遠のく意識に乗せてもらう…

そんなことを繰り返した気がします。

苦しさに意識をむけると

恐怖が過ぎり、

息苦しさを認識した体が

普段と同じ量の酸素を吸い込もうとし、

吸い込もうとしても吸えないので

苦しさが増します。

何度か傍にいた夫に

苦しい

と口走ったことを思い出しました。。。

 

出産のときは

余計な力はいらない、

今必要なのはあの感覚だ…

 

あの感覚でいようと思い

余計な力を抜いて委ねると

苦しさからくる恐怖は

遠ざかるのでした。

そこにあったのが

静けさ。

 

そして、やり残したことはあったのだろうけれど

残された思いが浮かばなかったのです。

小さかった上の2人の娘のことさえ

〝この人がいるから(夫のこと)子供たちは大丈夫ダワ〟

と、一瞬思い出し遠くで思っただけで

もう

後は遠のいて行く意識のままにお任せ。。。

 

病など身体の事情で亡くなるときは

きっとこんな感じなのでしょうか。

それでも、

姑のように痛みで苦しみ

痛さを感じきった後に体を離れる時、

そののちの静けさや解放感は

恐らく私の体験の比では無いでしょうね…

 

 

死ぬ瞬間や死を迎える時の体感などは

皆それぞれ固有の体験だと思うので

これが正解。

を書いているのではありません。

 

 

今こうして

生きていて思うことですが、

私は生き切ることが死という状況より怖い

とさえ感じる時があります。

 

 

生き続けて行く。

しかも情熱を持って。

日々決断の連続の中で

そう意識して生き続けていくことは

怖いと感じます。

いつか

疲れてしまう。

疲れ切るその前に

丁度良い加減で生きたら良いねぇ。

 

愚痴を言ったらいけない?

いえいえ、そんなことは有りません。

愚痴もたまには言いたくなる。

弱音を吐いたらいけない?

いえいえ、とんでも有りません!

弱音を吐いてくれてありがとう。

それくらいの優しさを見せる余裕が

人に残されていますように。

終わらない愚痴は

言わせてあげておけば良いじゃないですか。

違う話ししようか?と

誘ってみても良いですね。

たまに吐くものは

しっかり吐きだして、

ホラ、また

次に行きましょう。

 

情熱燃やせない時があって良いじゃない?

 

そんな緩さや

がむしゃらに生きたくなるという波のメリハリが、

生きることへの喜びに人を導くのかなと

感じています。

〜〜〜〜

日曜の午後

側から見る足りてなさ。というものを

本人は足りていないとさえ感じておらず、

今歌うことが幸せ。

と言わんばかりに

『鳩ぽっぽ』

をにこやかにのんびり歌う次女。

 

情熱を燃やし続けて行くのも

結構大変。

これくらい、ゆるゆると日々

ほどほどの加減で生きたらいい。

 

まぁまぁ、難しいお話は後にして

さぁ遊ぼうよ。

 

5番目の娘が

私と上のお姉さんたちの議論中

よく言う言葉。

ホント、その通りだわ。

 

楽しく遊んでいるうちに、

人はあっという間に死んでしまうものだよ。

これは私が子供たちによく言う言葉。

 

皆それぞれのスピードで

各々の生を生き心地良く

生きられたらいいな。

ゆるゆるとのんびりとした人が

こうしてここに居るのも良し

がむしゃらに生きる人がいても良し

どちらも善しとして

疲れて止まってしまうことも

善しとしていくこと。

私の中にある

生き切ること=寿命を全うすること

への恐怖は

それは

人は

産まれたからには

精一杯生きる。

と言う言葉の前に

「頑張って精一杯生きる」

事が前提となっていたとしたら、

私は生き切ることが恐怖でしかないです。

 

頑張れない時もありますから。

頑張りたくない時もあるし。

頑張れない時を

否定されるのは辛い事です。

 

がむしゃらに生きたくなるような出来事に出会ったら

その時、またがむしゃらに生きたら良いかな。

 

人はがむしゃらになりたくなる瞬間っていうものに

生きていれば必ず一つくらい

出会うのでは無いかと思ってるので

その瞬間がまだ巡ってこなかったら

それまで

のんびり構えてエネルギー蓄えて。

 

エネルギーが溜まったら

自然の流れとして

がむしゃらに生きる事を満喫したくなり、

また少し休んで…

そんな循環が有るのでしょう。

 

 

浮き沈みしつつ

力を入れて挑む時と

緩んでいたい時と

そんな命のリズムに乗って

その時を迎えるまで、

それは淡々と続くのですね。