環境の被害者という意識

 

先日の運動会から

ずっと私の心にあって消えなかったもの。

先日の運動会からじゃない。

恐らく育つ過程で育まれてきた思い込み。

「被害者意識」

〜だから仕方ない。という諦めはいつの日か

被害者意識に変化していったのだと思う。

〜〜〜〜

親の背を見て子は育つと言うけれど、

さてウチはどう?

 

長女はそれでも何とか学校に通っている。

登校前は不機嫌な様子でも、学校に向かう。

次女も同じ。

三女は自分の心が納得行くと学校に通う。

長男は今、学校がそこそこ楽しい。

四女は保育園がそこそこ楽しい。

そこそこって言うところが私の背を見て居る感じがしないでも無いな。

 

で、日々、

 

色々な出来事が現れては去って行く。

感情はその度ごとに

澄んだ湧き水のように自然発生的に湧いてくる。

出来事は一瞬留まってから風のように過ぎ去って行く。

残される感情があって、

長女(中二病真っ盛りのポーカーフェイス)以外の子供たちは

落ち込んでみたり怒ってみたり、

泣いてみたり悔しがってみたり。

全身を使って表現する。

 

出来事が過ぎ去って

感情の余韻に浸り、

その後

自力で殻から出て来てくれる。

何があっても、

それでもそのままであり続ける子供たち。

 

私たちに出来ることは

これだよね。

そう言っているかのように。

このままの私としてここに居るという事。

被害者と言う意識はそこに感じない。

もっと自然なもの。

 

解釈を加えてしまうのは大人だ。

単なる現象としては捉える子に大人なりの解釈を加えてしまう。

その時単なる現象が

重大な出来事に変わってしまうんだね。

 

そうだ、次女が保育園の頃

お友達に頭を叩かれても

頭を撫でながらニコニコして

「イテテテ^^」

と言っただけだった。

アレだね。

 

次女にとっては、

ただ、頭を叩かれた。

という現象が起きたにすぎない。

だから笑って頭を撫でているだけだったんだ。

凄いなあ…

 

 

私はどうかといえば

時々顔を出します。

解釈一杯してしまい

現象として捉えることも難しくなる。

環境の被害者であり続けたがる私。

 

環境の被害者とはつまり

自分の人生を歩む勇気が足りないだけのことを、

家庭環境や子供たちやお金や時間や社会や

住まいの土地柄などのせいにして

自力で立ち上がることに背を向けて居るだけってこと。

 

この意識が抜けていかない限り、

生きていく中で巡ってくる出来事には

前進を感じる変化は無いと言うことも

やっと心からわかりかけて来て居る。

 

あー、これが恒常性ってやつね。

これを脱ぎ捨てて行くのって大変。

かなり意識していかないと同じ道を辿ってしまう。

 

でも

覚悟して脱ぎ捨てて行く時が来て居るんだ。

 

環境の被害者で居続けたがって居る私という側面ともそろそろサヨナラね。

 

子供たちが全身で教えてくれる。

子供たちを見つめて居ると

自分自身の在り方の歪みを

これでもかと言うほど

見せつけられる。

 

それはどの子も同じ。

我が家の子に限らず

子供たちは皆そうなのだと思う。

 

ここでただ自然の生き物のように

このままの姿の私として佇むと言うこと。

たとえその姿が人からどう見えようと

それだけは

変わりが無いんだな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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