季節遅れの蛍

先日

家の網戸に一匹の蛍が止まって光っていました。

この子一人ぼっちだね。仲間はもうここには居ないのに、可哀想だなぁ。

5番目の娘が言いました。

私はその時

なぜかぼんやり祖母を思い出しました。

 

そして

ふと思い立ち

どうしても書き残したいと思い

本日二つ目のブログですが

書いておこう。

書いておく必要があると感じています。

 

祖母はリュックひとつと幼い母を背負い

満州から引き揚げてきました。

 

この辺にはそういった方々が多い。

 

そう仰る方もいるけれど、

その他大勢の一人ではなく

名のある個人で私の祖母。

祖母は

満州で新婚生活を送っていました。

生業はお豆腐屋さん。

中国の方を2名程雇い、忙しくしていたようです。

満州から日本に帰って、

生家の離れに身を寄せ、

一人で母を育ててきました。

祖母は

ロシアを恨んでいました。

 

ソビエト兵は気狂いだ。

 

と、ごく稀に当時を思い出し

つぶやいていました。

 

引き揚げ船に乗るための長い道のりで

言葉にはでき無い出来事を

たくさん見てきたのだとおもいます。

 

シベリアで捕虜となった私の祖父…祖母の夫は

28歳で栄養失調で亡くなり永久凍土の中に。

祖母がロシアを恨む理由の一つでもありました。

 

泣き言も言わず人の悪口も言わず不平不満も口にはし無い。

 

寡黙で働き者。

そんな祖母がつぶやくソビエトへの恨み。

そしてアメリカへの恨み。

耳に残った祖母の言葉がとても重く聞こえました。

 

終戦記念日(敗戦の日)には

寡黙な祖母がいつもより少し多弁になり

戦争の話をしてくれました。

 

その中での言葉を忘れてはならないなと思い、

書いています。

 

ソビエト兵もいけなかった(酷かった)けどな、

日本もいけなんだ(酷かった、悪かった)。

 

何がどのように日本もいけなかったかは詳細に話したがらなかったのですが、

 

日本人が

中国人の方や韓国人の方に意地悪や暴力を振るったりしているところをしょっちゅう目撃していたことを

大まかに話してくれました。

 

祖母が寡黙になったのは

心に処理しきれ無い戦時中の重苦しい記憶が

残っているためだったのでは無いのかと

想像します。

話し出してしまうと、

処理しきれ無い感情が堰を切ったように

溢れてきてしまう。

溢れ無いように

寡黙になることを選んだのかも知れません。

 

 

何を見て、何があって、

何を感じて生き延びてきたのか

話してしまうことが出来無い

重い何かを

抱えていたのかもしれ無いと、

思います。

 

被害者であり加害者でもある

日本の両方の顔を

祖母は見てきたのだと思います。

 

二人でおやつを食べながら

二人で台所に立ちながら

二人でテレビを見ながら

二人で洗濯物を畳みながら

 

祖母は

小さな声で軍歌を口遊み

目にいっぱいの涙をためて

泣かないように堪えている姿を時々見ました。

 

 

平和でありますように。

何のために

祖母が命を懸けて生き残り

日本まで帰ってきたのか。

 

それは

小さかった母の命を守る為であったことは

明白です。

平和でありますように。

戦争はもう嫌だ。

とつぶやいた祖母の思いを踏みにじらぬように。

 

子どもたちが

誰かや何かに恨みをいただきながら

生きていくことがないように。

 

平和でありますように。

 

 

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