いつかの殺意について

母が入院。

胃から出血が多くあり

胃の中を

バーナーのようなもので焼きました。

血管の異常があるようだ。

という事でしたが

今回出来るのはここまで。

 

夕方からの予定もキャンセルして

病院でジッと待つ。

予定をキャンセルすることに

一抹の不安が過ぎりました。

 

付き合いの悪い人。

と言われないかなと。

一瞬不安に。

 

でも、仕方ないんだ。

 

大丈夫だよー。

 

仕方ないことはどうしようもない。

そう思う人には、そう思って貰えばいい😌

と、思うしかないのでした。

 

 

小学校はまもなく運動会。

 

運動は嫌いじゃないけど

競わされるのが嫌だ。

競う意味が分からない。

勝ち負けにしちゃうと、

勝たない人はダメ。

みたいな空気がヤダ。

 

ということで

 

今年は下の二人は運動会が終わるまで学校にはいかないとのこと。

 

…1番下の子はそうは言っても

時々学校に行くと思う。

 

将来の憧れのお仕事の一つが

学校の先生。

 

学校が心から嫌いな人が

学校の先生になりたいはずがない😌

 

母の病院からの帰り道。

 

母はこうやってゆっくりゆっくりと

ロウソクの炎が

徐々に小さくなっていくように

彼岸に向かうのかなぁ。

と考えつつ

 

時々空を見上げて運転していたら

 

フッと父を思い出した。

 

あぁ、かつて、

 

私は父を殺したくて仕方なかった。

あの頃。中学生の頃。

 

あの人が消えてくれたら

この世の全ての悲劇消えると信じていた。

 

殺意が自然に湧き上がって

それこそ

真夏の入道雲のように。

 

その殺意の刃の先にいたのは

 

父と私自身だった。

 

そうだ

中学生の心象風景というのは

真夏なのだなぁ。

 

殺意があまりにも自然にここにあり

父が暴れると

私は包丁を持ち

父を制止しながら

殺せるなら殺してみればいい。

と、父に叫んだ。

 

さっさと殺せ。と言いながら

父と掴み合いになっていた。

殺せるものなら

さっさと殺せ。

と、父に叫んぶほどに、

 

私の心は冷ややかに静かになっていった。

 

それは

私の心が死んだ時。

心がヒンヤリしていくに従って

胸を刃で刺されたように

私の心はドクドクと血を流していたんだな。

 

 

…私はいわゆる不良でもヤンキーというものでもなかった。

ショートボブで

学校では普通に目立たない女子生徒。

授業態度も真面目。

寧ろ大人しく見られる人だった。

 

殺意というものは

自覚でき

尚且つ自ら受け入れることが出来る

全ての感情と

なんら変わりのないものであると

私は思う。

 

どこでストップをかけるのか。

 

注視していくべきは

 

そこなんだろう。

 

私は

どこで踏み留まったのか。

 

父はどこで踏み留まったのだろう。

 

その環境の中では

自然発生的に湧き上がってくる

殺意に対し

善し悪しで精査をしていたら

罪悪感と殺意との狭間で

私はもっと追い込まれていたのかも知れない。

罪悪感が膨らむほど

罪悪感と共に大きくなった殺意を正当化させるため

さらに

湧き上がってくる殺意を

正義の名の下に

さらに膨れ上がらせていたかもしれない。

 

 

 

私は

この人を殺したいほど憎んでいる。

そう自覚したのち

 

こんな奴を殺してしまったら

こんな奴のために

この人生を台無しにしてしまう。

そんな人生は悔しい。

私の人生を誰にも台無しにはさせない。

だから私は

殺さない。

生きて

いつの日か

私らしい

家族をつくる。

 

 

という思いとともに、

 

中学に行けば

私を信じてくれている先生や友達が待っている。

それから戦争で散々苦労した祖母を

また悲しませることだけはできない。

 

ということに目が向きはじめた。

 

 

憎しみは心に残っていたものの

 

高校を卒業する頃には

殺意は

潮が引くように

消えていき

父から母への一方的な暴力行為を止めに入る時も

包丁を持ち出す回数が

少なくなった記憶がある。

 

在る。ものを

無きものとして扱い

善悪の世界だけでそれを見つめないこと。

 

 

綺麗事では

終わらないのが人の感情。

綺麗事で終わらせることに固執しない事。

 

綺麗事で終わらせられるよう

最大限努力して、

それでも

ダメなら

自分の人生を棒に振る前に

その場から離脱したほうがいい。

 

いまは

もう

そんなことを思い出しても

胸のどこか遠くが少し

ギュッと痛むだけ。

 

父がそのようであったのも

母が力無き者のように振舞っていたのも

 

戦争があり

様々な悲しみが生まれ

戦時中の教育と

戦後の日本の社会的背景と教育の

副産物のひとつの形が

この家の形となったのだろうと思っている。

 

よかった。悪かった。

ということではないんだ。

 

ただ

このままなんだ。

 

これが今の私を型作っていて

私の人生はボロボロなんだと感じていたけれど

私の本質は

傷つかないこと。

いまの私にはわかっている。

 

帰りの車の中で5番目の娘が言う。

 

 

ばあちゃんが死ぬ時にはね、

 

ありがとうありがとうありがとうありがとうありがとうありがとうありがとうありがとうありがとうありがとうありがとうありがとうありがとうありがとうありがとうありがとうありがとう.…

 

って

100万回言うの。

 

と。

 

 

 

 

 

 

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