命のたちば

今日も午後から満願寺周辺の山歩き。

 

 

 

 

切り株の上には

新しい宇宙。

 

苔がゆっくりと

切り株を土に還していきます。

子どもたちと

ジッと見つめてそのペースを想像してみます。

枯れ葉の上を走る水。

この水は

数十センチ先まで地上を流れたのち

自然の流れに沿った小さな小さな小川を作っています。

 

このような川を

「忘れ水」

と言うのですね。

 

日本語の奥行きを感じられる言葉が

たくさんありますね。

 

大切にしたいと思います。

 

この階段を降ると、

空気の匂いが変わります。

南東からの淡い日差しが木の隙間から差し込むので

苔むした暖かい匂いが混ざるためでしょうか。

子どもも鼻をヒクヒクさせて香りを吸い込み

違いを感じています。

 

心地よい澄んだ空気の中で

最近浴びた言葉の刃について

整理をしてみようか…

 

 

経験の違いから理解したくない。

という現象が現れますが

 

そこから発せられた刃。

 

 

 

命の立場から見ると

…命のたちばとは

 All Loveの世界。

あなたの全てを愛しているから

あなたのその思いも受け止めます。

 

望んで死を願う人に対しては

 

死にたかったんだね。

 

というその思いは一旦受け止めたい。

 

そこに私の気持ちを挟める余地があるなら

私の気持ちを差し挟むことを

その人が

許してくれるならば、

 

それでもでも生きていて欲しいな。

あなたが生きていてくれると嬉しいよ。

 

と、伝えるだろうと思う。

 

死にたい。という選択すらも許されない。

 

とする前提があるとしたら、

子どものころのあの日々の中では

死ねる。

ということが

唯一自分を救う道であったのは

残念ながら事実の私には

 

生き地獄が永遠のものと思われる。

 

 

死ぬ。

という回避の手段を許されないと言う前提を掲げてしまわれると

私の成長過程を否定することになる。

それは

今の私を否定することになる。

私は私の人生を

私までが否定したらダメなのだと思っている。

 

何の因果なのか

 

仕事では

おそらく100人近くもしかしたらそれ以上の

亡くなる方々を

彼方の世界へ見送ることになり、

 

また、最初の結婚では自死遺族になった。

 

そして

 

小さな小さな本当に小さな我が子を失った。

この子が生きていたら

私は6人の子どものお母さん。

心の中はいつも

6人の子どものお母さんです。

 

 

私の人生にはずっと

 

命とは?

生きるとは?

死とは?

 

という問いかけが常にあった。

 

その私の今の

命への結論は

 

死にたい思いは否定しない。

 

そうなんだね。いま死にたいんだね。

それほど辛いんだね。

 

と、共感すると思うし、

そうしてきた。

 

回避の手段として考え抜いた答えが

死ぬこと。

であるなら

ノンジャッジメント。

 

共感した上でなお

 

私は

伝えるのだと思う。

 

それでも生きていてくれたら私はとても嬉しいよ。

 

と。

 

 

 

 

今日も黒猫ちゃんのお出迎え。

 

長男は帰り際に言った。

 

「母ちゃん、クロちゃんがさぁ僕に抱っこしてってきた時にね、『不完全でも大丈夫』って言ってくれた気がして嬉しかったよ。」

 

 

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