多様性ということばのひとり歩き

養護学校高等部、入学説明会のあと

ポカリと空いた隙間時間に息子の釣りにお付き合いできました。

 

小春日和。

微かな甘い香りは足元から漂うのの草花たちの香り。

 

 

川べりで息子のキャスティングを眺めながら

ここ最近沈み込みがちな私の心について

何に心沈み込んでいたのかと思い巡らしていました。

 

見つかった一つ目の答えは

多様性。

という言葉。

多様性って最近あちこちで耳にするけれど、

 

あまり心地よくないなと思っていたのです。

 

多様性の本質とは何か

答えられる人はいるのかなぁと、

 

考えていたことで

 

気持ちがどんよりしてきたんだった。

 

そのようなことを

声高に掲げる必要があるのが

 

この社会だったんだわ。

 

さりげなく

足元の野の花を

あたりまえの心地よい気持ちで受け止めるように

自分たちとは異なるものを

受け止めることは難しいのだろうか。

 

そう考えていたら

 

心が重くなってしまった。

私は人に対してとても興味が湧く。

興味を抱く人を見つけると

観察することに没頭してしまう。

 

観察するうちに

その人がとても愛らしく尊重するに値する存在であることに気がつく。

 

どんな人も素敵。

 

そんな考えの元に生きてきた私には

 

 

オリンピックを控えてから一層

あえて

多様性を叫ばなければならなくなったことが

悲しい。

 

そうしなければ

 

子どもも、私も居場所が無かったみたいじゃない?

 

そう感じていました。

 

多様性を掲げるごとに相違点が明らかにもなるわけなので

その相違点を明確に言語化しなければならないほど

 

多数派になり得ない人たちは

異質なものとされていたのかということも明らかになり

孤独に押しやられた気持ちになりました。

 

多様性を受け入れた先に必要なのは

異質な人、もの、こととの

共存意識であったら

どんなにか

素敵だろうかと

 

暗澹たる気持ちで

思っています。

 

 

 

 

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