見たものを淡々と

 

私たちは

体験を通し

あらゆる感情のデータを集めています。

 

なので

出会う人

出会った出来事

そのままを

淡々と傍観者のように

遠巻きに見つめる必要があります。

そう、最近は特にそのように感じており

私は私を踏み台としていく人たちを

淡々と観察して

その感情のゆれや

また人は人をどのように裁き

人は人をどのように利用して生きて行くのかなどなど

冷酷な部分までも見つめて行く必要があります。

その上で

 

「今までの生き方が良かった」

と、本気で思えるのでしょうか?

 

分断と区別と排除の繰り返し。

 

それらは全て正義の名の下にあり

個人のレベルに至っては目も当てられぬ有り様。

 

行き過ぎた個人主義。

 

行き過ぎた

ワクワク思想。

行き過ぎた

自己愛。

 

…行き過ぎていることに

もはや気がつくことも出来ず。

 

分け隔てなく。

という言葉が上滑りしていきました。

夕方

赤色の夕焼けのなかに

虹が立ちました。

 

単純に美しいと思い

またそれを分かち合う家族のいることに感謝。

いまここに残ってくれている人たちに

改めて感謝。

 

私は人の底辺にいて

ここより下に誰もおちぬよう

手を広げてそこにいるのだ。

 

と、

幼いときからそう思って生きていたので

 

恐らく

私を踏み台にしていくことに

多くの人は罪悪感を覚えなく

むしろ

私を踏み台にしていくことには正当な理由があるのだ。

と思っている様子です。

 

それが

私の役割なら

そんな役割はもういらないな。

 

大切に対等にお付き合いできる人と

一緒にいたらいい。

それでいい。

私を底辺として扱う人たちとは

 

もうさよなら。

 

子どもたちも

その立場からさよならした私を感じて

生き方が変化して行くのだと思う。

 

大丈夫だ。

何度でも生き直せる。

精一杯

目の前のこと人を大切に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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