今日の午後
部活の練習に行かなかった息子のおかげで
野辺山までドライブができた。
夕方6時前というのに空を見上げると星星星。。。。
流れ星やちいさめの火球もいくつか見えて
いま、なんとか流星群の極大期を過ぎたところだという。
夫の体調が芳しくなくて心が微かに沈んでゆく。
星を見上げていつまでこんな時間を過ごせるのかなと考える。
子供たちは無邪気に感動している。
夫は静かに堪能している。
それぞれの闇夜。
美しい夜空。
夫と子どもたちと。
夫と二人
いつまで同じ空を見上げられるかなあ。
写真のバナナちゃんの様に
いつまでふたりくっついていられるのだろう。
わたしのともだちの深夜一人の過ごし方は
黙々と工作か手仕事だそう。
写真の抱きしめるバナナも観葉植物にぶら下がるオランちゃんも
そのともだちの作品。
わたしも手仕事や工作を静かに堪能したいけれど
夫を暗闇で寝かせたいので
あかりが必要な手仕事は控え
暗闇でもできること
こうしてことばを書いているに留める。
ともだちとわたし
それぞれの夜。
それぞれのやり方で一日をリセット。
また明日
新しいわたしたちになるために。
…色々考えるよる。
いつぞや目にした言葉が頭をよぎる。
「大した苦労もしていないのにたいしたことだと思っているひと」
というようことが書いてあったことば。
人それぞれ言葉にしえない苦労がある。
自分がした苦労を手放せないでいると
自分が誰よりも苦労してきた。
という比較の世界の罠に嵌る。
上の言葉を発した人もおそらく
どこかで
いま幸せそうに見える人を妬んでいるのかもしれない。
自分が一番苦労したと思っていて
いま人からもそう言ってもらいたいのかもしれない。
そうしてまだ
いま傷の只中にいるのだろうなあ。
気の毒なことだ。
癒えていない傷とともにいまそこ在るというのは
さぞかし苦しかろうと思う。
世に
同じ様な境遇の人は存在するが
あたりまえだけれど全く全てが狂いなくぴったり同じ境遇であるはずがない。
今幸せそうな笑顔のその人が
かつてことばにもならないほどの
その人なりの苦労があったとは
想像がつかないであろう。
それぞれの道のりでそれぞれの苦労があって
それぞれの苦労を比較することになんの意味があるのだろう?
と
その時思った。
文章から感じた
今幸せそうに見える人への
嫉妬、羨望、怒りなどなど…
そして深い悲しみ。
…
想像力ですよ、何事も想像力。
目の前のその人の言葉の柔らかさがどこからきているのか?
目の前のその人のおおらかさがどこからきたものなのか?
産まれながらの環境だけかな?
本当にそうなのかな?
目の前のその人の優し気な目の奥に悲しみの痕跡がみえ隠れしていないだろうか?
思いを馳せる優しさと想像力。
思いやりを欠いてしまった言葉を発する時は
何かが足りていない時。
それを発見するためには
休日の深夜の一人時間を創造の時間につかってみるのオススメです。