短い夏
夏がもう終わる。
朝晩とても空気が澄んで
冷たくなってきている。
夏らしい雲と青い空の色が
もう恋しく感じられるのは
子どもとの時間が濃い夏だったからなのか。
夏休み前に長女の進路が決まり
親としての役割を担う時の短さを痛感した。
赤ちゃんの頃からの数年間の記憶をゆっくり辿ってみる。
夢中になって育てたので記憶が所々飛んでいるけれど
可愛かったな。楽しかった。
またご縁あったら
私のところに産まれてみてね。と、
三者懇談後、
そんなことを思った。
高校という一つの枠を抜けて
また次の枠に向かう。
そこでは
枠から飛び出していくのか
枠にハマるのか。
自分自身をカテゴライズせずに
一度
まっさらになって生きてみたらいいね。
日々という
連続性のある時の流れではあるけれど
眠り
目が覚めて
朝が来たら
生まれ変わったように
新しい私としてここに存在している。
そんな気持ちで生きたらいいね。
目の前の人が全て
家族でさえも
今日
生まれて初めて出逢う人。
生まれて初めて経験するその人たちとの時間。
という眼差しを忘れずに生きてみたらいい。
そうすれば
目の前のひとに対して
とても丁寧になれるから。
それを怠ったり
忘れると
日々を共に過ごす人に対する思いや行いが
ぞんざいになる。
後悔のないように。
自分自身の在り方がどうであるかを
その結果を伝えてくれるのは
身近な人たち。
その場を去る時が来たとして
この世をさる時が来たとして
その人たちの
そして家族の記憶のなかに
どのような人物として残りたい?
あとで後悔しないようにね。
目の前のひとに精一杯丁寧であるために
丁寧に。を、実行出来る人の人数を
具体的に把握するのも悪くないかもね。
…脳内で長女に話しかけている。
わたしにも夫にも、他の子たちにも
同じことが言えるね。
特に家族というのは
時にひどく無神経になり無意識のうちに
たやすく傷つけても大丈夫な相手となり
時に相手の心情を知っていても
無関心を決め込むことも
他者に対するよりたやすく非情になれる。
それは
甘えがベースにあるからであろうけれど
間違えなく
関係の奥底にはヒビが入り綻びが出てくるもの。
それを修正できるか否かも
あなたの在り方次第。
長女だけじゃない。
わたしがわたし自身に与えてきた
自分自身への眼差しを変えていく時でもある。
最近認めたこととして
私は冷たい人である。
ということ。
思っていたより優しい人ではない。
どこか諦めがつくと
とてつもなく非情になれる。
とてつもなく鈍感でもあって
とてつもなく過敏でもあり
その
中間でいることは難しい。
……
なぜか
こうして
そうであると、思い込んでいたけど
そうではなかったことを書き出していくと
現れてくるのは
不動であった私の本質的な部分であるのが不思議で
思い込んでいたことを書き出すごと
私の石膏が剥がれ
本来の灯火を携えて立つ自分が見えてくる。
それを発見するたびに訪れる深い安心感。
一人という独立したわたしの存在を感じる。
他者との関係性においては孤独であるけれど
個として立っているという安定した感覚。
各々がそうであれるなら
家族愛ですら
そっと手放せる時が来るのかと思う。
それはわたしが望んでやまなかった愛。
もう体験できたのだから
そっと手放していく準備が整い出して行くのだ。
長女のあらたなスタートに向け
わたしも精神の旅立ちを迎えている。
思い込みの自画像を
破り捨てていくとき。
さぁ
各々で
ゆっくりゆっくり
慎重に地面を蹴って飛んでいけ。
新しい発見の旅へ。
さよなら
今までのわたし。
本当にどうもありがとう。